ワークショップを科学するとは?

昨日は「ワークショップのファシリテーションを科学するー困難さ調査レポートから熟達の鍵を探る」という公開研究会に参加した。ファシリテーターとしてネット調査に参加したし、研究を学ぶ立場として調査書も読んだ。

 

どうしたらワークショップを科学的に捉えることができるかに興味しんしん!

 

参加者の方々は、さまざまな領域/年齢層/地域からお集まりになっているようだった(多少男性のほうが多かったかな)。すべての領域で行われているさまざまな行為を「ワークショップ」でくくってしまうことで、この多様性が生まれていることは間違いない。しかし多様すぎることで、研究グループ自身がワークショップ/ファシリテーター/ファシリテートの「定義ができない」のであれば、少し整理が必要だろうな〜と思う(研究のためには)。


 ちなみに学術的に一番古くからやられているワークショップは「演劇」のもの。その演劇のワークショップを多々受講し、最近は自らも実施している立場としては、このワークショップ乱立期には違和感があり。面白ければ乱立もまた楽しかろうけれど、なんだか窮屈。閉塞感を感じる。限界や堅苦しさ。本来ワークショップが持つ「ゆるさ」の逆で、どんどんシステム化/オートマチック化しているような気がすることへの息苦しさ。


 それはなぜなのだろうか??

 

 まず1つは、最近の「ワークショップ」と言われるものは「こうやればいい」という「きまり」に則ってやっている感じがする。セッティングは島型、中央には模造紙、可愛くお菓子が置かれていて、スタッフはフレンドリ、ネームタッグがあって、飲み物が置かれていて、グラレコがあってということが「印象として」「参加者への気遣い」といよりも、「おきまり」になっていることへの違和感。


 2つ目に、今までセミナー/会議/講座/レッスン/集まりと言われていたものすべてを「ワークショップ」と呼んでいるような気がする。さまざまな状況の中で「必要だよね」といわれて作られた社会的な形態を、すべて「ワークショップ」として大きくくってしまったことで、その解釈が難しくなっている。その中で、たとえば本来演劇のワークショップが持っていた「身体性」とか「収束しないことで生まれる意外なアイデアや表現の創発」とか「遊び」とか「好奇心」とか「あいまいさ」とか「システム化/構造化していないゆるさ」とか、そういった概念はどんどん失われていっているように感じる。もちろん「別に演劇のワークショップに則る必要はないんじゃないか」とか「演劇だけがワークショップじゃないから」という方々も一方でいらしゃるだろう。それはそうだとも思う。


 さらに実践者と研究者の深い溝。「ワークショップは社会とともにどんどん変化している。だから定義/内容/考え方/目的/形態が変化していっていいんじゃないか〜」という意見もある。社会学的にはそういう見方もあるだろう。でもそれって社会現象を解釈しているだけで、実際にワークショップを実施しているものにとっては、正直に言ってなんの役にも立たない。ワークショップを実践している立場としては、さらに人の役にたつワークショップをやっていきたいのであって、それは解釈ではない。だからその議論は学術的にやるのはまったく素敵だけど、ワークショップ実践者にとしては「そういうことじゃないんだよね〜」ということになる。

 

 わたしは実践家は研究者のやっていることを鵜呑みにしないで、それに違和感や疑問を感じる必要があると思う。実践家は研究者に頼らないで、自分たちで客観的にものごとを考える力を身につける必要があると思う。最近の実践家の中には、研究者に答えを求める傾向があるかもしれない。でも研究している人たちの文化に関わるようになって、わたしは多分それはもしかしたら不毛で、実践家は実践家同士で、問題を解決しようとしたほうがいいような気がする。勉強会とかでね。なぜならほとんどの研究者は、実践家の問題を解決しようとし研究しているわけではないから。自分の研究のために、実践家を(悪い言い方をすれば)利用しているだけだから。


 あともしかして、これは私の思い違いであってほしいのですが、世の中には、「workshopをやってほしい」という人よりも「workshopがやりたい」という人のほうが多いのではないか?たとえば、会社だと「効率」や「成果物」を求められるそうだ。それってワークショップじゃなくてもいいんじゃないかな。「会議」や「研修」というトップダウンでteachingされる形式でいいじゃないかな。よく聞く言葉で、「ワークショップをやりたいんですけれど、上に理解されなくて」というのがあるけれど、別にworkshopやらなくてもいいんじゃないかな。でもその人はやりたいんだよね。きっと理由はあるんだろうけれど。


 あと違和感としては、デザインやコンテンツが先行する考え方。演劇のワークショップは「目的」や「必要性」が第一にあり、そこからデザインやコンテンツが作られていくから。これはデザイン思考と共通する点だとわたしは理解していたが、そうではないのかな?コンテンツから考えるという発想自体が、参加者を主体にするワークショップとはずいぶん異なし、実際の現場の必要性とフィットしていないんじゃないかな〜。わたしにとっては、たとえば「レゴのworkshopをやりたい」と考えて、そのあとに「どんなことに効果があるか」と考えて「どうしたら成功するか」と考える思考のフローには違和感がある。それは初心者のファシリテーターの失敗例としてコンテンツから考えてしまうってやつじゃないかな??「目的」があるからworkshopという形態が選ばれて、だからその形態の中で、目的に「そぐった」(目的を「達成する」ともちょっとニュアンスが違うような気がする)内容(コンテツ)や環境をデザインする。すべてはそこにある環境や人や問題から「目的」が立ち上がり、そのためにworkshopという形式を使う。のだと、わたしは思っていたんですが、どうやらそうではないものがあるということが、昨日の研究会でわかったこと。たぶんコンテンツから考えるワークショップは、そもそもがファシリテーターや企画者の「やりたい」自己満から始まっているので、そのあとを考えるのは大変だろうなと思う。そもそもが自分のためだから。自分のためを他者のためと置き換えてから、ワークショップを考えることも必要じゃないかなと思った。


 最後に「僕らは創造性を引き出されたくもないんだよね〜」という若者たちの直感的な発言があった。これはおもしろなと。それはワークショップに閉塞感ありの参加者代表みたいな意見で。もうどうしようもなくワークショップを考えるという立ち位置と異なるわけで。なんというか多様な人があつまってできる議論の限界と広がりの両方を感じた。いろいろな意見があっていいはもちろんだから。でもなんか「真面目」に考えている大人をバカにしているようにも感じちゃったよ。そういう賢い若者に賢く世界を変えていってもらったほうが、面白いのかもしれないとも感じた