しかばねまでの意味づけ

 今日も勉強。明日も勉強。
 自分がやっていることは全て無駄なんじゃないかと感じることがある。こんなバカな自分が、この年になって、例えば精神生理学を認知科学を統計を学ぶことに何の意味があるのか。私がインプロや演劇や演技や創造性に関して考えたり、勉強したり、リサーチすることに何の意味があるのか。誰に頼まれたわけじゃないし、特に注目されるわけでもない。もちろんお金にはならないし。
ただ、自分の人生は(綿々と続く)人類の流れの一筋であり、自分が人類の一員であると考えると、自分の人生にもやっていることにも多少は意味を見出すことができるかもしれない。
自分が生きている時間は、次世代に何かを残すために使うのだ。
そう考えると、家族を外国に残し、お金にはまったくならないことに何十時間と費やして、朝から晩まで本を読んで、理解できない英語文献に何日も費やして、遊びにも行かず、美味しいものも食べず、お金になる仕事はせずに、まだ誰も知らない領域の「何か」を突き止めることに自分の時間を使うことも、誰かの役にたつかもしれないものの一端なのだ。
自分の時間を費やして見つけた知見は、「こんな感じだったよ」って感じで次世代の人たちに伝えられるだろう。若い人たちがこのような辛く苦しく時間のかかる作業に、自分の時間を費やさなくてすむ。私のしかばねの上を、若い人たちに歩いてもらう。
それはものすごく偉そうで高飛車でおごった考え方かもしれない。そう思った若い方はわたしを無視して、プレしかばねの私を越えていっていただきたい。ただ自分が生きて行くためには(そんなに長くはないだろうが)、そうとでも考えないと負けてしまいそうになる。そうやって自己肯定感をなんとか保ちながら、いつ終わるか分からない(たぶん一生続く)探求に自分の時間を使っている。
本当だったらインプロや芝居の公演企画をして、役者としてオーディション受けて、芝居やるのになぁ〜とか、大々的にワークショップをやることだって、インプロ学校つくることだってできるのになぁ〜とか思うのです(だったらやれよということかもしれないけれど)