なぜ泣くか?

愛するものを失った後、泣くということ

 

死んだ猫のことを思い出すと、今だに「いきなり」大量の涙が出てきてしまう。

 

なぜだろう。

 

自分の内側を見てみると、それは「悲しい」とか「寂しい」とか、説明できる気持ちではないように思う。

 

いきなり泣き出してしまう状態は、すでに言葉になっている「感情」とはちょっと違って、もっと愛するものが死んだという「イベント」を外界から伝えられて、そこから「ショック」を受け、それに呼応する「かたまり」みたいなものが、自分の中から湧き上がる感じ。

その表現として涙が出てくる感じ。

 

愛するものが死んだという「イベント」は、死んだ日と共に止まっている。日常は私を「イベント」に留まらせてくれない。どんどん新しい物事がやってきて、私はそれを遂行するために、毎日をやりくりしていく。

 

でも愛するものが亡くなった「イベント」はまだ留まっているので、「イベント」と私の時間的な距離はどんどん離れてしまう。

 

日常は私を「イベント」に留まらせてくれない。愛するものを失った悲しみに没入させてくれない。そこに留まって、思い出と共に死ねたらどんなにいいだろうと願っても。

生きている者には、どんどん新しい物事がやってくる。死んだ者の時間は止まっている。

 

今わたしが泣いているのは、多分わたしの進んでいるこの時間軸に、大好きなあの存在が「いない」ということかもしれない。

 

人生が「旅」だとすると、できれば誰かと、その経験をシェアしたいものだ。でも人生の旅は、一人で始まって、一人で終えなくてはならない。だからこそ旅の途中はできれば誰かと同行したいと思うのだ。シェアすることで「自分の旅」は存在したことになるから。

 

誰にも知られない旅は、無かったことと似てるから。

 

人生の旅は時間軸で進んでいて、後戻りできない。後戻りできそうな気もするけれど、本当に後戻りすることはできない。1秒1秒、私たちは死に向かっている。できれば誰かと一緒に歩みたいけれど、全行程をすべて完走することはできない。

 

いくら考えても、自分がなぜ突然泣くのかは分からない。

 

けれど今書いたような事実が、忙しくて物事を忘れていく私を打ちのめして、止まった時間をまた動かしてくれているのかもしれない。

 

涙と共に。