演劇人として軸がない自分に気がつく(恥ずかしい)。

なにをどう演劇したらいいんだろう?

これから書くことは、まったく生産性のない、ただのつぶやきです。ぜんぜん役にたちません。(苦笑)。自分の気持ちを整理するために即興的に書いています。ご了承ください。

 

「フェスティバル東京」の初代プログラムディレクターであり、現在はNPO法人芸術公社の代表理事を務めておられる相馬千秋さんのレポート難民の移動ルートを学びの場へ変容させる「道の演劇」:ヨーロピアン・シンクベルト / マクドナルド放送大学 レポート」を拝見した。

 

このマクドナルド放送大学の仕掛け人は、「個室都市東京」(2009)や「完全避難マニュアル」(2010)など、いわゆる「演劇」の枠を超えたユニークな活動をしてきた高山明さんである。この「道の演劇」と名付けられた演劇は、マクドナルドでラジオ講義が受けられるというもの。講義というと、大学教員などその道の専門家が専門的な講義をするものだが、この大学の場合は、難民の人々が行う講義である。それをラジオで聞くことになるそうだ。

 

今までも高山さんの活動はすごく気になっていて、作品が発表されるとできるだけ見るようにしてきた。

しかし、その中でも、この企画は画期的だ。マクドナルトという場、難民との関係性からコンセプトの立ち上げ。現代における意味。意義。ここには長期にわたるリサーチがあったという。そりゃそうだろうな〜。すげー。

 

高山さんの演劇プロジェクトを始めとする、私が「おもしれ〜」と感じる演劇は、つねに私に「演劇とは何か?」という問いを投げかける。

 

「演劇とは何か?」

その定義は時代とともに変化するものだと思う。

 

演劇は祝祭だ。

演劇は詩だ。

演劇は文学だ。

演劇は政治だ。

演劇はエンターテイメントだ。

演劇は教育だ。

演劇はスポーツだ。

演劇は癒しだ。

演劇は娯楽だ。

演劇は、演劇は、、。

 

いろいろ言える。

きっと決めることはできない。

だからそれぞれの人が、

それぞれの「演劇」をやればいい。

 

そうなんだけれども。

それじゃあ、自分はどんな演劇をしたいかというと、

それはやはりちゃんと考えてやらないと(当たり前だけど)、いけないと思った。そんなのあたり前なのだけど。

 

例えば。

わたしはインプロをやっているので、それじゃあ

「どんなインプロがしたいんだ」という問いに対して、

どう考えたらいいか。

 

そもそも「インプロと自分の関係はなんなんだ」と考えたときに、わたしがインプロを面白いと感じるのは、そこには誰かのテキストに書かれることのない/劇作家が描ききることのできない「人間そのもの」が立ち現れるからだと思う。

 

わたしは決してインプロのスキルを見て欲しいとは思わない。むしろインプロで作るストーリーは正直いってチンケなものばかり。長期のリサーチや綿密な編集によって練り上げられた戯曲にはかなわない。(それが私を絶望的な気持ちにさせる。でもそれを直視しなくてはならないと思う。)すでにインプロのグルたちは「ストーリーはシンプルなものでいい」「インプロでは葛藤をつくると難しくなる」と作劇に関してはサジを投げている節もあるし、シェークスピアやチェーホフなどの作家のスタイルを真似てインプロするスタイルさえある。こちらインプロやっている人たちは「これはパロディじゃない」って言い張っているが、わたしにはパロディにしか見えない。(主観的かつ辛口でごめんなさい。)

 

そしてインプロがよく「チャーミングだよね私たち」と主張する「私たち協力してます!」とか「間違ったり焦ったしてます!」とか「相手を輝かしています私!」とか、そういう姿を平気で見せて、それを看板に、見せどころにしてしまう態度に関して、演劇人としては「甘えているだけじゃんそれ」と思ってしまのです。アマチュアだなぁ〜って。

 

だからきっと、私がインプロに対して「面白い」と感じることは、もしかしたら今インプロをやっている人たちが「面白い」と感じていることとは、もしかしたら全然違うのかもしれない。そして今のわたしがすべきことは「それじゃあ、あなたがやりたいインプロ(インプロじゃなくても可)はどんなものなの?」ということを突き詰めて考えることだと思う。

 

話しは突然とぶけれど、私は10代〜20代のころ、寺山修二さんの大ファンだった。劇場ではないところで演劇していくアイデアは目から鱗だった。「そんなことができるのか」とびっくりし、その「枠のはみ出し方」にすごく憧れた。実際に自分が観ることができた作品は、寺山さんの後期のもので「観客席」や「レミング」などだった。特に「観客席」は観客を挑発する多くのアイデアにドキドキワクワクした。私もこの空間の仲間に入れて欲しいと思った。当時高校生だった私は寺山さんに数十枚にもわたるファンレターを書き、本人から返事をもらい(パリからだった)、当時は渋谷から麻布に移動していた天井桟敷館に行ったり、晴海埠頭の稽古場を見学したことも。

 

もちろん両者は、虚構と現実とどう付き合っていくかという点で大きく異なっている。

 

しかしわたしが高山さんの作品に強くひかれるのは、そこに寺山さんの作品に似ている匂いを感じているからだと、やっぱり思う。それは「問い」の立て方。両者とも「演劇」そのものに関して「問い」を立てている。そして両者とも、自分なりの答えを追求すべく、真摯にそのコンセプトに向き合って、具体的実際的に行動を起こしている。(そして注目されている)。

 

自分もぼんやりしているだけじゃなくて、本当に自分を掘り下げていかないと、無駄に時間がすぎてしまうなぁ。

本当に掘り下げないと。