【報告その3_ラーニング・ジャーニー】



1)ラーニング・ジャーニー

カンファレンスのプレイベントとして、2日間ワークショップが行われました。

希望者だけが受講します。


workshops

わたしはこのコースを選びました。ビジネスワークショップの新しいフレームワークを習って、自分たちでワークショップを組み立てています。いろいろ議論中。わたしのグループは、メル(アメリカ)、リリー(イギリス)、マット(スイス)、ディジオ(スペイン)、ジョン(イギリス)というメンツ。


Workshops

こちら「マインドフルネス」のワークショップ


WOEKSHOP風景


Yuri's thoughts

 今日参加したワークショップでやった様々なエクササイズ。体験している時に、どうしても「日本の人にはやれるだろうか?」と考えてしまう。スペイン人の研修講師とプログラムを作ったんだけど、流れが急すぎる。スペイン人なら、いきなり人前で演じても抵抗がないのかもしれないけど、多分日本の人たちは気持ちが引けてしまうだろうな〜。あと別グループがやったエクササイズ(輪になって、ひとりが全員とアイコンタクトをしてから、以下を言う。1)I am (自分の名前)2)I am here 3)I am enough. ) 終わったあと、みんなの感想は「人とのコネクションを感じた。ここに居ていいのだという安心感があった」などだった。でも私は強制的にやらされた感覚があり、I am enough(私はすべてを持っている)という言葉は、つまりI am not enoughと感じている人に「そうではない」ということを感じさせるという暗黙の自己啓発的メッセージが込められているように感じ、それをやらされることへの抵抗感あり、またこういうことにはカルト的な要素があるので気をつけたほうがいいのではと感じだ。また「アイコンタクト」を強要するのも、文化的違いを無視している。わたしは「ワークショップを壊したくなかったから、言われた通りにやったけど、純粋な参加者だったら不愉快だったと思う(以下その理由説明)」と言った。こういうネガティブな発言をしたのは私だけだったし、言うのには勇気がいったけれど、「誰かが言わないと」という教育的配慮が私を後押しした。凍りついた場になったけど、ファシリテーターがうまくまとめて、なんとなくいい雰囲気でワークショップは終わった。

 西欧の人たちは、一般的に自分の価値観を主張することが多い。もちろん悪気はない。わたしはそれに圧倒されて聞くことが多い。でも、こちらの考えを言わないとわたしという存在はないのと同じ。「あなたはどう?さっきからぜんぜん喋ってないけど大丈夫?」などと気を使ってくれる人はめったにいない。主張して初めて存在を認めてもらえる。まるで「意見がないと人間じゃない」みたいだ。メディテーションとか仏教とか禅とか、そういうことには表面的に興味があり、それをネタにワークショップをする人も多いけれど(最近はマインドフルネスという言葉が”流行”してて、それは西洋人の憧れでもあるんだろうけど、安易に使われている気がしてムカつく)、我々アジア人の文化を本当に理解しようとする人はここではあまり見当たらない。最近は年をとったせいか、ずうずうしくなったので、めちゃくちゃな英語で「それはおかしいと思う!なぜなら〜」と主張することができるようになった。面白いのは、わたしの「キレる」行動に対して、相手はわたしの英語をけなすわけでもなく、ちゃんと普通に会話し続けてくれるということ。つまり彼らにとっては、わたしの英語がめちゃくちゃなことや、感情的に「切れて」いることなどはあまり気にならないらしい(気にしてるかもしれないが、私には気がつかない)。むしろ好意的に受け取り「ユリは面白い」という評価さえもらい、プライベートな心の悩みなども打ち明けてくれるようになる。こういう環境でサバイバルしていくと、日本人の「こうでなくてはならない」という気遣いがだんだん意味をなさなくなり、だんだん相手がわたしの領域に、わたしは相手の領域に近づくことになる。そして最終的には共通空間が生まれて、そこで会話ができるようになっていく。そううなればしめたもので、初めて人間同士としての会話になる。「Common Space」ってやつだ。それができた人とは生涯の友達になる。そういう人たちが世界中にいる。

 それにしても「いかに聞くことが大事か」をえんえんとしゃべり続ける人や「I love people」と言ってるけど、人からの賞賛を待っている人など、言動不一致の人たちもいるだよね〜。いろいろと矛盾が見えてきて、それがすべて自分へのフィードバックになって返ってくる。「んじゃ、あなたはどうなんだ?」ってこと。人間は永遠に成長しつづけることができるんだなぁ〜。